2013年05月01日

山の穴と駅員がどうした(01) JR山手線「新大久保駅」

152-01_P1080682_800.jpg

152-02_P1080716_800a.jpg

 中高年なら「山のアナ、アナ・・・」と聞いただけで三遊亭歌奴の『授業中』が脳内をめぐり、さらに「新大久保駅の駅員」という単語が湧き出てきます。

 若者に「山の穴と駅員がどうしたの?」と聞かれたら「シャラップ!」。教科書にカール・ブッセなど載っていないし、肝心の歌奴が圓歌になってしまったから、説明など面倒臭い。「新大久保は、昔、山の穴だった」と答えておくに限ります。

 JR山手線「新大久保駅」は平屋建ての駅舎。山手線の外側にあり、目の前は線路の高架と直角に交差する大久保通りです。駅前広場もロータリーもなく、改札を出るとすぐに大久保通りだから他の駅の雰囲気とは大違い。だから、いつも人々が行き交っています。

 駅前を左に進み、300メートルほど歩くとJR中央線「大久保駅」に着いてしまうほど両駅は接近しています。開業したのは大久保駅のほうが早く、新大久保駅は後輩にあたります。ちなみに先輩は明治28年(1895年)に甲武鉄道の駅として開業、後輩は大正3年(1914年)の開業です。

【写真(上)】新宿駅と高田馬場駅の間は2.7キロだから、中間に新駅が欲しいところ。で、新宿駅から1.3キロ、高田馬場駅から1.4キロというほぽ中間点に新大久保駅が誕生です。

【写真(下)】駅舎は、多少、改築されているものの、昔の雰囲気を保っています。駅ビル「アトレ」が全盛の時代、貴重な駅舎かもしれません。大久保通りの巨大な横断歩道はいつでも人が行き交っていて、高架の上の車窓から良く見えます。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | 山の穴と駅員がどうした

2013年05月02日

山の穴と駅員がどうした(02) 原色看板の韓国系ショップ

153-01_P1080722_800a.jpg

153-02_P1080725_800a.jpg


 JR山手線「新大久保駅」は孤立した駅。他のJR路線や他社路線と接続していないので、下車する人は新大久保周辺に用事のある人に限られます。

 2011年度の「JR東日本エリア内の各駅1日平均の乗車人員」によると、1位「新宿駅」(73万4154人)、10位「高田馬場駅」(19万9741人)。お隣の両駅はベスト10に入っていますが、「新大久保駅(4万2433人)」は、なんと100位。かろうじてベスト100の最後尾です。ちなみに2010年度は111位(3万7344人)、2009年度は119位(3万4783人)。

 そのせいなんでしょうね、駅舎を含めた駅前の表情が昔とほとんど変っていないのは。ただし、唯一、当時と異なるのは、駅前を行き来する方々から漏れ聞こえてくるコトバの多くが韓国語であることと、駅前を横切る大久保通りの両側に韓国系ショップが軒を連ねていることです。

【写真(上)】駅のガードをくぐって大久保通りを歩いてみると、韓国系ショップがいっぱい。原色の看板が目立ちます。

【写真(下)】街並みは整然としていて、一角ごとに奥が深いのが特徴。鉄砲百人組の時代、それぞれの屋敷で鉄砲の練習をするための場所が確保されていたということらしいのですが、実際に歩いてみると、大久保通りに沿って見事に長方形の区画が並んでいました。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | 山の穴と駅員がどうした

2013年05月03日

山の穴と駅員がどうした(03) 「みなあたる」からギャンブラー大集合

154-01_P1080702_800a.jpg

154-02_P1080691_800a.jpg


 韓国系ショップめぐりは次回にすることにして、大久保通りをUターン。再びガードをくぐって新大久保駅を通過、100メートルも進まないところで「皆中稲荷神社」を発見です。住所は新宿区百人町1丁目、「皆中」は「かいちゅう」と読むそうです。江戸時代、鉄砲百人組が駐屯していた真っ只中です。

 皆中が「みなあたる」と読めることから、鉄砲組の面々は「ワラをも掴む思い」でお参りしたところだというから愉快。もっとも、天下泰平の世の中だったようで、伊賀出身者で固められた鉄砲組の出番は皆無だったようです。

 鳥居の脇で各種お守り袋を売っていた方に聞いたら、「ギャンブルをされる方がお参りにくるわよ」。なるほど、同じ「あたる」でも馬券のほうですか。やっぱり天下泰平のようです。

 でも、昭和40年代の朝日新聞夕刊によると、駅前商店街に「巫女アルバイト募集」の看板を出すほど巫女不足になったのは「ひのえうま明けの四十二年、どの結婚式場も巫女不足の払底に泣いた。そこで職員出向のかたちで彼女らの大量供給に乗出したのが駅前皆中稲荷である」とあります。

「縁組みなあたる」というわけで、当時の宮司さんが手がけた縁組は「すでに三万組」で、巫女募集の結果「現在百二十人の女性を同神社に登録することに成功した。この動員数は都内屈指といわれる」そうだから、ちょっと前まではお目出度い「あたる」だったようです。

【写真(上)】神社脇の小道。今でこそ、小さな境内で目立たない「皆中稲荷神社」ですが、かつては武士たちが内職で育てたツツジを売ったり、出店が出たりしてかなり賑わっていたそうです。

【写真(下)】神社の境内は細長〜い。とりあえず「あたる」ように願掛けしておきましょう。何に当ったのかは、その後のお楽しみというのもいいかも。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | 山の穴と駅員がどうした

2013年05月04日

山の穴と駅員がどうした(04) 一週間のご無沙汰だぜロッテ

155-01_P1080720_800a.jpg

155-02_P1080737_800a.jpg


 池袋方向に向かって「新大久保駅」の左側は百人町2丁目、右側は大久保1丁目。

 いずれも、歌舞伎町あたりから「逆さくらげ」マークでお馴染みのホテルが北上し、風紀の乱れを危惧した住民とのトラブルが頻発した地域。

 それでも、ちょっと北上しては一休み、北上された地域の住民が引っ越したあと、さらにちょっと北上・・・といった具合で、昭和40年代には東の「鶯谷駅」と並ぶ一大ホテル街に成長したところです。

 でも現在は、ホテルはあるのですがそれほど目立ちません。北上の勢いも大久保通りを越えることが出来なかったらしく、2丁目の路地に入ると静かな住宅街といった趣になります。

 前述のガードをくぐった「ロッテ」の工場のあたりは大久保2丁目。

【写真(上)】駅のガードをくぐったところにある小道です。その昔、この先には「1泊200円から」という看板を掲げたドヤ(簡易宿泊所)が建ち並んでいました。でも、今では個人の住宅が建っているだけで、当時の面影はまったくありません。

【写真(下)】さらに先に進むと、チョコレートでお馴染みの「ロッテ」の工場。これは当時のまま。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | 山の穴と駅員がどうした

2013年05月05日

山の穴と駅員がどうした(05)  爆音とどろく戸山ヶ原

156-01_P1080761_800a.jpg

156-02_P1080814_800.jpg


 線路沿いをさらに進み、戸山小学校を抜けて海城学園の前を右折すると早稲田大学理工学部の校舎。

 住所は大久保3丁目。かつてはキツネやタヌキが出没する広大な原野(戸山ヶ原)だったのですが、明治7年(1874年)に陸軍用地となり、周辺一帯が練兵場として使われたところです。

 早大の校舎があることろは、かつての射撃場。当時から射撃場以外は市民に開放されていたので、つかの間の「武蔵野の面影」を味わう人々で原野は人気があったようです。

【写真(上)】都立戸山公園入り口あたり。いったん園内に入ってしまうと、ここが都内だとは思えないほどの豊かな自然環境です。

【写真(下)】さすがにキツネやタヌキの姿は見えませんが、クルマの騒音もないし、緑の匂いで気力が充実する思いです。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | 山の穴と駅員がどうした