2014年10月01日

ちんちん電車に乗って(38) 大関信濃守下屋敷

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 なぜ大関横丁か。

 江戸時代から明治初め頃まで、下野(栃木県)黒羽藩一万八千石の領主大関信濃守の下屋敷があり、その南と西を取り囲む道(横丁)だったから大関横丁。

『江戸切絵図/今戸箕輪浅草絵図』を見ると、大関家の西隣に加藤大蔵少輔(伊予新谷藩一万石)、東隣に宗對馬守(對馬府中十万石)、北隣に石川日向守(伊勢亀山六万石)の下屋敷が並んでいる。南隣は現在の明治通り(当時の幅員は約2間)。

 石高から考えれば對馬守の宗家が横丁の名前になってもよさそうなものだが、そうならなかったのは、幕末の大関信濃守の奇行が原因だと言われている。

 奇行といっても「内縁の夫人と一緒に馬で江戸市内を乗り回す」程度のことだったらしいけど。

 いずれにしても宗横丁、加藤横丁、石川横丁ではなく、大関横丁でよかった。近くに横綱横丁があれば、さらにベター。

【Map】『江戸切絵図/今戸箕輪浅草絵図』(尾張屋清七版)。嘉永2年(1849年)〜文久2年(1862年)刊。大関家の下屋敷があった場所は、現在のイトーヨーカ堂の西半分+第六瑞光小学校の一帯。

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2014年10月02日

ちんちん電車に乗って(39) 21系統とトロリーバス

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 かつての大関横丁交差点は賑やかな交差点だった。クルマだけなく、路面電車もトロリーバスも走っていたからだ。

 金杉通り(日光街道裏道)からやってきた水天宮発上野駅前経由の21系統は、大関横丁交差点から日光街道を北進、千住大橋を渡って荒川手前の千住四丁目まで至る路線。

 王子あたりから北千住に行くには、三ノ輪橋停留場(27系統)で下車して三ノ輪橋停留場(21系統)に乗り換えるだけだったから、実に便利だった。

 もっとも北千住駅前停留場は名ばかりで、鉄道の北千住駅とは約350mも離れていたのがネック。というより、鉄道駅が日光街道から外れていたと言ったほうが正しいか。

 残念ながら昭和43年(1968年)に三ノ輪橋〜千住四丁目が廃止。翌年(1969年)、三ノ輪橋〜水天宮も廃止。

 一方、明治通りには都営トロリーバス103系統と104系統が開通していて、いずれも大関横丁交差点をブイブイ走っていた。

 103系統は池袋駅前〜王子駅前〜亀戸駅前。昭和32年(1957年)開通、同43年(1968年)廃止。104系統は池袋駅前〜王子駅前〜浅草雷門。103系統の翌年に開通し、同じく103系統と運命をともにした。

 現在、地下鉄とバスが代わりを担っているのだが、昔のほうが良かったと思う。

【Photo】幹線道路が交差する大関横丁交差点は、いつもクルマがいっぱい。横断歩道を渡る人波も絶えることがない。

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2014年10月03日

ちんちん電車に乗って(40) そうだ吉原、行こう

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 大関横丁交差点で考えた「そうだ吉原、行こう」。明治通りから土手通りに入り、しばらく歩くと台東区千束。吉原遊郭があったところだ。

 江戸幕府公認の遊郭は現在の日本橋人形町にあったのだが、明暦の大火(1657年)によって浅草寺裏の日本堤に移転。日本橋時代を元吉原、日本堤時代を新吉原と呼ぶ。

 日本堤は広重の『名所江戸百景』でお馴染み。山谷堀の両岸に土手を築いたもので、いわば土手道。昭和2年(1927年)に取り崩されてしまったが、土手通りの名前が残った。

 かよい馴れたる土手八丁、吉原大門見返り柳、また来ておくんなんしというわけだが、浅草からではなく大関横丁から吉原入りでは不粋かも。

【Photo】三ノ輪1丁目あたり。右側は台東区立東泉小学校。前方に見える明治通り三ノ輪二丁目交差点から土手通りに入る。

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2014年10月04日

ちんちん電車に乗って(41) 土手の中江と伊勢屋

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 土手通りを歩く。片道2車線の立派な道路だから土手の面影はないけど。

 途中、瓦屋根の古い建物が続く一角と出会う。吉原大門交差点の手前だ。

 向かって左側は明治38年(1905年)から続く「桜なべ中江」。当時は「土手の中江」とも呼ばれ、吉原にご用のある方々に大人気だったそうだ。

 初代中江桾太郎が文明開化グルメの牛鍋ではなく馬鍋に目をつけたのは賢明だったと思う。味は淡白なものの、食感は牛肉そのもの。味噌で煮込めば皆同じ。

 今も昔も虚飾に満ちた高値安定の牛肉とくらべ、質実剛健安値安定の馬肉だから、客に安価で提供出来るところがいい。

 大正10年頃に馬肉を行商していた人の話によると、牛肉百匁(375g)の仕入れ値が20〜22銭だったときに馬肉は15銭ほど。あんぱん1個2銭5厘、週刊朝日10銭だったころだ。

 中江のお隣は明治22年(1889年)創業の「土手の伊勢屋」。江戸前天丼で有名。行儀の悪いことに、天ぷらがドンブリからハミ出ているらしい。

【Photo】「桜なべ中江」の建物は関東大震災で倒壊したが翌年に再建。戦災も免れ、今に至る。

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2014年10月05日

ちんちん電車に乗って(42) 日本堤は吉原への近道

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 吉原遊郭に通うには、当時、4つのコースがあった。

 @ 浅草寺横、馬道を行く。軒並み寺社だから、多少、辛気臭いが、田町一丁目に出れば日本堤はすぐそこ。

 A浅草寺護摩堂裏、見渡す限り田畑の田圃道を行く。田町二丁目に出れば、これまた日本堤はそぐそこ。

 Bスタートは柳橋の船宿。猪牙舟(ちょきぶね)に乗って隅田川をさかのぼる。山谷堀で舟を降り、日本堤へ。山谷舟とも言う。

 C箕輪(三ノ輪)から入る逆コース。日本堤の西の端、左に山谷堀、右に浅草田圃を眺めながら吉原大門に至る。

 吉原遊郭は、周囲を高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれていたから、郭内に入るには、唯一、大門をくぐらなければならなかった。大門は日本堤にある。

【Map】今戸箕輪浅草絵図(江戸切絵図)尾張屋清七版。嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年)刊。

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