2014年10月06日

ちんちん電車に乗って(43) ホントは防災用の土手

620-01_三谷の土手_800.jpg

 

620-02_P1000582_800.jpg


 元和5年(1619年)、荒川(隅田川)の氾濫で浅草下谷一帯が大被害。流路に面している今戸あたりは海抜1mほど。川岸が決壊したらひとたまりもなかった。

 翌6年(1621年)、あわてた秀忠は土手を築造。全国の諸大名が土木作業を請け負ったから土手の名前が日本堤・・・という説あり。

 元和2年(1616年)に死去したオヤジ家康は「不自由を 常と思えば 不足なし」と言っていたけれど、川の氾濫が常では江戸幕府の基盤がゆらいでしまうから、土手築造は必須。とはいっても、江戸城の奥御金蔵の金は使いたくない・・・そうだ、諸大名にやらせよう(秀忠談)。

 土手の長さは834間(約1516m)。高さは田町裏で一丈余(約3m)、吉原大門で8尺(約2.4m)。浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から箕輪浄閑寺あたりまで続いていた。

 残念ながら日本堤は昭和2年(1927年)に取り崩されてしまった。

【Book】『絵本江戸みやげ 2編6巻 三谷の土手』(菊屋安兵衛)。当時の日本堤を描いた挿絵。道幅の詳細は不明だが、かなり幅広の道だったようだ。

【Photo】吉原大門交差点のそばにある「見返り柳」。遊客が吉原大門を出たあと、未練たらたら、柳のあたりで遊郭を振り返ったらしい。かつて山谷掘脇の土手にあったものを移植。植え替えも行なわれている。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | ちんちん電車に乗って

2014年10月05日

ちんちん電車に乗って(42) 日本堤は吉原への近道

619_今戸箕輪 浅草繪圖_完成_800.jpg


 吉原遊郭に通うには、当時、4つのコースがあった。

 @ 浅草寺横、馬道を行く。軒並み寺社だから、多少、辛気臭いが、田町一丁目に出れば日本堤はすぐそこ。

 A浅草寺護摩堂裏、見渡す限り田畑の田圃道を行く。田町二丁目に出れば、これまた日本堤はそぐそこ。

 Bスタートは柳橋の船宿。猪牙舟(ちょきぶね)に乗って隅田川をさかのぼる。山谷堀で舟を降り、日本堤へ。山谷舟とも言う。

 C箕輪(三ノ輪)から入る逆コース。日本堤の西の端、左に山谷堀、右に浅草田圃を眺めながら吉原大門に至る。

 吉原遊郭は、周囲を高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれていたから、郭内に入るには、唯一、大門をくぐらなければならなかった。大門は日本堤にある。

【Map】今戸箕輪浅草絵図(江戸切絵図)尾張屋清七版。嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年)刊。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | ちんちん電車に乗って

2014年10月04日

ちんちん電車に乗って(41) 土手の中江と伊勢屋

618_P1000577_800.jpg

 土手通りを歩く。片道2車線の立派な道路だから土手の面影はないけど。

 途中、瓦屋根の古い建物が続く一角と出会う。吉原大門交差点の手前だ。

 向かって左側は明治38年(1905年)から続く「桜なべ中江」。当時は「土手の中江」とも呼ばれ、吉原にご用のある方々に大人気だったそうだ。

 初代中江桾太郎が文明開化グルメの牛鍋ではなく馬鍋に目をつけたのは賢明だったと思う。味は淡白なものの、食感は牛肉そのもの。味噌で煮込めば皆同じ。

 今も昔も虚飾に満ちた高値安定の牛肉とくらべ、質実剛健安値安定の馬肉だから、客に安価で提供出来るところがいい。

 大正10年頃に馬肉を行商していた人の話によると、牛肉百匁(375g)の仕入れ値が20〜22銭だったときに馬肉は15銭ほど。あんぱん1個2銭5厘、週刊朝日10銭だったころだ。

 中江のお隣は明治22年(1889年)創業の「土手の伊勢屋」。江戸前天丼で有名。行儀の悪いことに、天ぷらがドンブリからハミ出ているらしい。

【Photo】「桜なべ中江」の建物は関東大震災で倒壊したが翌年に再建。戦災も免れ、今に至る。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | ちんちん電車に乗って

2014年10月03日

ちんちん電車に乗って(40) そうだ吉原、行こう

617_P1000570_800.jpg

 大関横丁交差点で考えた「そうだ吉原、行こう」。明治通りから土手通りに入り、しばらく歩くと台東区千束。吉原遊郭があったところだ。

 江戸幕府公認の遊郭は現在の日本橋人形町にあったのだが、明暦の大火(1657年)によって浅草寺裏の日本堤に移転。日本橋時代を元吉原、日本堤時代を新吉原と呼ぶ。

 日本堤は広重の『名所江戸百景』でお馴染み。山谷堀の両岸に土手を築いたもので、いわば土手道。昭和2年(1927年)に取り崩されてしまったが、土手通りの名前が残った。

 かよい馴れたる土手八丁、吉原大門見返り柳、また来ておくんなんしというわけだが、浅草からではなく大関横丁から吉原入りでは不粋かも。

【Photo】三ノ輪1丁目あたり。右側は台東区立東泉小学校。前方に見える明治通り三ノ輪二丁目交差点から土手通りに入る。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | ちんちん電車に乗って

2014年10月02日

ちんちん電車に乗って(39) 21系統とトロリーバス

616_P1000557_800.jpg

 かつての大関横丁交差点は賑やかな交差点だった。クルマだけなく、路面電車もトロリーバスも走っていたからだ。

 金杉通り(日光街道裏道)からやってきた水天宮発上野駅前経由の21系統は、大関横丁交差点から日光街道を北進、千住大橋を渡って荒川手前の千住四丁目まで至る路線。

 王子あたりから北千住に行くには、三ノ輪橋停留場(27系統)で下車して三ノ輪橋停留場(21系統)に乗り換えるだけだったから、実に便利だった。

 もっとも北千住駅前停留場は名ばかりで、鉄道の北千住駅とは約350mも離れていたのがネック。というより、鉄道駅が日光街道から外れていたと言ったほうが正しいか。

 残念ながら昭和43年(1968年)に三ノ輪橋〜千住四丁目が廃止。翌年(1969年)、三ノ輪橋〜水天宮も廃止。

 一方、明治通りには都営トロリーバス103系統と104系統が開通していて、いずれも大関横丁交差点をブイブイ走っていた。

 103系統は池袋駅前〜王子駅前〜亀戸駅前。昭和32年(1957年)開通、同43年(1968年)廃止。104系統は池袋駅前〜王子駅前〜浅草雷門。103系統の翌年に開通し、同じく103系統と運命をともにした。

 現在、地下鉄とバスが代わりを担っているのだが、昔のほうが良かったと思う。

【Photo】幹線道路が交差する大関横丁交差点は、いつもクルマがいっぱい。横断歩道を渡る人波も絶えることがない。

posted by sankiyou at 00:00| Comment(0) | ちんちん電車に乗って